本連載 港町の本屋を訪ねて 第3回
海辺の町の古本屋が、夜だけ店を開ける理由
港の灯りがひとつ、またひとつとともりはじめるころ、凪浦の商店街のはずれで、一軒の古本屋がシャッターを上げる。開店は日の入り、閉店は午前零時。昼のあいだは一度も開かない店に、夜ごと人が集まってくるのはなぜなのか。店主の汐田律子さんをたずねた。
日が沈むと、シャッターが上がる
九月のなかば、夕方の凪浦駅に降りた。駅前から海へまっすぐ延びる商店街は、五時を過ぎると半分ほどの店が戸を閉める。魚屋が店先に水を打つ音、自転車のブレーキの音、閉店を知らせる短い音楽。一日が終わっていく気配のなかを、潮の匂いのするほうへ歩いていく。
商店街がとぎれ、岸壁が見えてくる手前の角に、その店はある。宵待書房。間口二間ほどの木造二階建てで、昼間に通りかかった人には、錆の浮いたシャッターしか見えないはずだ。前回訪ねた岬の貸本屋が町の暮らしのただなかにある店だったとすれば、ここは町が眠りにつくころに目を覚ます店である。
シャッターの脇には小さな黒板が掛かっていて、白いチョークで「本日の日の入り 十七時五十八分」とある。開店の時刻は決まっていない。日が沈んだら開ける。それが、この店のただひとつの決まりだ注1。
十七時五十八分。岸壁に腰を下ろして待っていると、水平線に残っていた橙色が消え、背中のほうで、がらがらとシャッターの巻き上がる音がした。振り返ると裸電球がひとつ、ふたつと灯り、ガラス戸の向こうに天井まで届く本棚があらわれる。「いらっしゃい。まだ誰も来てないから、ゆっくり見ていって」。紺の前掛けをした汐田律子さんが、そう言って笑った。
店内は奥行きが深く、左右の壁と中央の平台に、ざっと一万冊の本が並ぶ。文庫と新書が半分、残りは詩集や郷土史、古い旅行記。港町らしく、船や漁の本も多い。帳場の上では、先代が使っていた柱時計が、少し遅れて時を刻んでいる。
西日から、本の背を守るために
汐田さんが店を夜だけ開けるようになったのは、十二年前に父親から店を継いでからだ。先代は朝十時に店を開けて夕方六時に閉める、ごく普通の古本屋を営んでいた。
「うちは店が西を向いているでしょう。午後になると、海に照り返した光まで店の奥に入ってくるの。父の棚を片づけていたら、窓ぎわの本がみんな背焼け注2していてね。色が抜けて、書名が読めなくなっているものまであった」
見せてもらった文庫本は、表紙には深い緑が残っているのに、背だけが白茶けた砂の色になっていた。本を傷めるのは光だけではない。潮風に運ばれた湿気を吸うと紙は波打ち、放っておけば茶色い染みが浮いてくる。海辺の古本屋は、いつも光と水を相手にしている。
そこで汐田さんは、昼のあいだはシャッターを下ろし、除湿機を回して本を休ませることにした。日の光が届かなくなってから店を開ければ、本はもう焼けない。はじめは苦しまぎれの策だった、と汐田さんは言う。
ところが夜に店を開けてみると、昼には一度も見かけなかった客がやってくるようになった。最初の晩に来たのは、これから夜勤に向かうという看護師さんだった。「こんな時間に開いている本屋があるなんて」と言って料理の本を三冊買っていき、いまも月に一度は顔を見せる。
夜にしか来られない人がいる
客の途切れた合間に、店の奥の帳場で話を聞いた。
三浦 夜には、どんなお客さんが来るんですか。
汐田 いろいろですよ。夜勤に向かう看護師さん、塾帰りの高校生、それから漁師さん。いか釣りの船は夕方に港を出て、朝まで沖にいるでしょう。出る前に、開けたばかりの店に寄って一冊買っていく人がいるの。
三浦 船の上で読むんですか。
汐田 漁火注3の下で読むんだって。明るいから、よく見えるらしいのよ。
三浦 昼に開けていたころとは、ずいぶん違いますか。
汐田 まるで違います。昼のお客さんは、用事のついでに寄る人。夜のお客さんは、ここに来ること自体が用事なの。この町で夜に開いているのはコンビニくらいだから、ほかに行くところがないって笑う人もいます。
話しているあいだにも、客足は途切れなかった。作業着のまま文庫の棚の前にしゃがみこむ青年がいて、参考書の棚を行ったり来たりする制服の二人組がいる。誰も大きな声では話さない。帳場の横では古いラジオが、小さな音で明日の波の高さを読み上げている。
夜に売れる本には傾向がある、と汐田さんは言う。昼に比べて、詩集や随筆、古い旅行記がよく出る。反対に、実用書は昼の店ほどには動かない。「夜は、急いでいない本が売れるのよ」
夜の本屋は、灯台みたいなものだと思うの。誰かが起きている明かりが、町にひとつあればいい。
零時に、明かりを落とす
十一時を過ぎると、客はさすがにまばらになる。汐田さんは帳場で値札を書きながら、ときどき顔を上げて通りのほうを見る。視線の先には、防波堤の突端に立つ小さな灯台がある。
「夜の本屋は、灯台みたいなものだと思うの」と汐田さんは言う。「誰かが起きている明かりが、町にひとつあればいい。本を買わなくても、明かりがついているのを見て安心する人がいるから」。沖に出た漁師から、店の明かりが見えると言われたこともあるそうだ。岸壁の街灯と見分けがつくのかと尋ねると、「電球の色がちがうのよ」と笑った。
店の外には、百円均一の文庫を並べた木箱がひとつ出ている。この箱だけは昼も夜も出しっぱなしで、代金は横に置いた缶に入れてもらう。昼間の町の人と店をつなぐ、ほとんど唯一の窓口だ。「昼に来られない人のために夜を開けて、夜に来られない人のために箱を出しておく。それで、ちょうどいいのよ」
帰りぎわ、閉店をなぜ零時にしているのかを尋ねた。汐田さんは少し考えてから、「日付が変わるまでは、今日のうちでしょう」と言った。今日をうまく終えられずにいる人が、今日のうちに寄れる店。それが、汐田さんの考える夜の本屋なのだと思う。
零時ちょうど、汐田さんは電球をひとつずつ消していき、最後に入口の明かりを落とした。私は背の焼けていない詩集を一冊抱えて、店を出た。振り返ると、シャッターはもう下りていて、通りには街灯と、沖に並ぶ漁火だけが残っていた。
明日の黒板の数字は、きっと今日より一分ほど早い。宵待書房の場所と営業時間は、記事の終わりの店舗情報にまとめておく。